風船職人の成長物語。たけむーは波瀾万丈でござる
2024/08/03
こんにちは。風船使いたけむぅ〜です。
今回はどうでもいいことを書きます。出演する際のチラシや、新聞、雑誌、テレビなんかでご紹介いただく際に色々とプロフィールや経歴を聞かれます。私の経歴がとてもややこしいことから、毎回説明が面倒くさいのでちょっとまとめようとおもいここに残します。ごく少数のコアなファンの方だけご覧ください(笑)
風船との出会いから
これ、めちゃくちゃ聞かれます。もしメディアにちょっとでも出たいと思っている人はまとめておいた方がいいと思いますよ。
前置きはさておき、私が風船をはじめたきっかけですが、「幼少期にバルーンアーティストに出会い、それに憧れて始めた」とかでは全然ありません。
派遣社員でAUの販売員をしている時に、キャンギャル(古)のお姉さんが、花やら犬を作ってたのを見て、大昔にクラウンさんからプードルやら剣やら貰ったことを思い出して、「おもしろそう」「仕事で使えそう」「自分でもやってみたいな」と、興味本位で教わったのがきっかけです。経費で購入して、イベントのない土日は自分でバルーンを使って客引きをするようになりました。
凝り性の負けず嫌い
そうするうちに販売員から、イベント部隊に引き抜かれました。そこで、先輩がアーチを作ったりしていたので、見よう見まねでアーチやらガーランドを作るようになりました。すごいと褒められるので、どんどん拘るようになりました。当時は道具とかはないので、目分量でサイズを測っていたので時間がかなりかかりました。そんな中、たまにどっかで習ってきたという強者が現れるので、とりあえず、自力でそいつよりうまくなってやるぜ!ってのが自分なりのモチベーションでした。
転職してボランティアを始める
その後、光ファイバーの飛び込み営業に転職し、2年くらいやったあとまた転職してケーブルテレビ会社の法人営業部署に配属されました。土日が休みになったので、友達作りと趣味の一貫として学生時代を思い出してボランティア団体を設立。児童館を回ったりしながらゆるーく工作やレクリエーションをやったり風船でも披露しようとおもっていました。そしたら、団体設立直後に東日本大震災が発生。ネットで有志を集めて募金活動をしながら、募金してくれた子供達にバルーンを配るという活動を何回かやります。140万くらい集めて全額赤十字に寄付しました。そこからなんやかんやあって、1年後くらいにボランティアバスに乗り、宮城県南三陸町の仮設住宅でバルーンアートをステージで披露することになります。こうした活動をブログで見た人たちから、依頼がくるようになり、仲間と一緒にどっかに行ってバルーンアートをして子供たちと遊ぶというのを月1〜2くらいで繰り返す日々を数年間過ごします。
路上にすげーやつがいる
そんな日々にももうそろそろ飽きてきた頃、梅田のHEP前でストリートでバルーンを捻っているほっそりしたメガネの兄ちゃんを見かけます。なんかすげぇリアルで可愛いチョッパーの風船をキャリーにくくりつけて、なんかすごい可愛い作品を作って人だかりを作っていました。とにかくすごい。ネットで見たどんなバルーンアートよりも可愛いし上手い。30分くらいその姿を眺めて、自分でも作ってみようとするものの作れない。くやしい。
すげーやつの弟子に出会う
路上でやってみたいなーって思い始めた頃、とある大道芸人に誘われて難波のひっかけばしの近くや駅前で自分も路上をやるようになります。そんな頃、あべのハルカスのオープンのイベントで、バルーンアートを配らないかという依頼が飛んできました。数十人がかりで花の風船をくばりまくるという企画らしい。そして、それと同時くらいに、天王寺で路上でバルーンをやっている男性から相談があると連絡を受けて会いに行ったところ、なんということでしょう。あのHEP前で見たにーちゃんが持ってたチョッパーをお持ちじゃあーりませんか。でも、この人は、どちらかというとふっくらしているし、メガネもかけていない。聞いたところ、おそらくそれは自分の師匠とのこと。なんたる偶然。この方が、日本チャンピオンになった時に同じチームだった、風船職人池田くんで、私が初めて言葉を交わした、風船一本で生活しているプロのバルーン職人です。
プロの意識が芽生えはじめる
そしてあべのハルカスのオープンを迎え、その時にすげー綺麗なバルーンの帽子を被ったねーちゃんを見かけてびびったりしたわけですが無事に終わります。ちなみにその綺麗なねーちゃんとは、2018年にタッグを組んで全国大会で優勝することになりますが、それは未来の話。これをきっかけに、池田さんからちょくちょくとバルーンの仕事の依頼が飛んでくるようになります。そうするうちに、レベルの高いバルーンを見る機会が増えるようになり、追いつこうとするうちにだんだんとプロの意識が芽生えてきたと思います。
すげえにーちゃんと再開
ある日、池田さんに誘われてMBS放送の1階で大規模な装飾をする現場に誘われました。そこで、あのHEP前で出会った池田さんの師匠と再開します。名前はなりさん。その時のわしの憧れの人やで。ようやく会えたと感動しました。その時、一緒にいたなんかやたら業界慣れしてるハット被った赤いメガネで、メガネの奥が全然笑っていないお兄さんにちょっとビビりながら、ひたすら風船にボンドを入れていました。ちなみに、その業界慣れしたお兄さんはバルーンシュウさんです。色々話をしたかったのですが、なぜか全員機嫌が悪くピリピリしてて全然話せずに手伝いは終わります。後で聞いたら、とんでもなく大変な状態で、しかも、なりさんと池田さんは大喧嘩してたようでした。
路上でプロに挟まれる
そして、ある日天王寺へ路上をしに行こうとしたら、その場所になりさんがいました。なんか賑わってるので、なりさんが作ってるのを遠巻きにみてたら、「隣で一緒にやる?」と誘われたので、ほんまにええのかと思いながら隣で始めることに。他のお客さんは、なりさんのを見て頼んでくるので、それを隣で真似しながら無理やり対応したりしてアタフタしてました。そしたら、なんか突然あの目の笑っていないメガネのにーちゃんがやってきて、とんでもない作品を作り始めました。なんて恐ろしい・・・。しかし、見るものが全部新鮮で、とても刺激的で楽しい1日を過ごせました。この日のことは一生覚えていると思います。
周りにいる人がとんでもない人だと再認識
なんだかんだ色んな繋がりが増え、さらにレベルの高い方々の作品を間近で見まくったおかげでレベルアップした私は依頼が増えていきます。それもそのはず。コミュニケーションをとるうちに段々周りにいるバルーンアーティストたちの異常さに気づき始めます。シュウさんは全米チャンピオンだし、なりさんは知る人ぞしる伝説のバルーン職人とか言われてるし、池田さんは元吉本だしめちゃくちゃです。自分的にはこの人たちが”プロ”のスタンダード。なんか適当に過ごしてたらその辺で出会ってるんで、正直当時はそんなすごいと思ってなかったんですが、後々になって、とんでもない奴らだとわかるわけです。
2016年たけむーは全国を知る
そして、もっと色んな人たちに会ってみたいと、初めてバルーンアートの全国大会とやらを友達と二人で見にいきます。場所は広島県。全国から多くのバルーンアーティストが集結していました。身近にいた人たちとは全然違う作風の作品が並んでいたり、ネットでみて知ってるぞーみたいな人がうろちょろしていました。こんなに沢山のバルーンする人たちがいる場所はなんて楽しいんだと、ワクワクしながら過ごした1日でした。ただ、僕の中でシュウさんやなりさん、池田さんの異常さを再確認した1日でもありました。そして、この業界のめんどくさい”闇”の部分に足を突っ込むきっかけにもなりました。そして、そんな中で、私の尊敬していたなりさんが病気で他界しました。
この素晴らしくも無名のアーティストが、世の中に知られずに終わったことは、今でも悔しさで一杯です。なりさんは、素晴らしいアーティストでしたが、全国大会などの公の場からは排除されていました。これが、私がこの業界のビジネスの在り方に、資格やコンペでアートから多様性を排除する思想に、疑問をもつ大きなきっかけともなりました。
2019年に全国大会を関西に呼びたい
聞けば関西では10年以上、全国大会をやっていない。そして、約10年前の大阪大会の実行委員長はなんとシュウさんだったという話を知るわけです。10年間きてない理由は色々ありすぎて割愛しますけれども、感じたことは”もったいない”でした。
私の周りは誰も、バルーンでこんなに色々できることを知らない。いまだに周りの人は犬や剣花くらいしかできると思っていない。もっと沢山の人に知ってほしい。そして海外のように、大勢でとてつもなく大きな作品をみんなで作って皆でワイワイしたい。なりさんやシュウさんとか池田さんとか、既存のやり方では測りにくい人たちが参加でき、その凄さを全国の人にも知ってほしい。そんな夢を周りに語るようになりました。私の理想は、すげぇ先輩たちを顔にたて、私は社会経験をいかして、仕組みを考えたりバックアップしながら大々的に宣伝する感じ。色んなところに足を運んで、色んな人の意見に耳を傾けました。
2018年に全国大会で優勝する
僕の周りにいる先輩方は、全国大会とかそういう人が集まる場所はあんまり好かんってことで、僕自身コンテストに興味はなかったのですが・・・先輩曰く、全国大会を主催するにあたって”無名ではいかん”ということで、しぶしぶ全国大会に出ることになりました。結果、優勝します。
たけむぅ〜完全に独立する
全国大会に向けて、準備に時間をすごくさかなければならなかったこと、そして、アマチュアが実行委員長になるっていうのは、なんとなく失礼な気がしたので、とりあえず全国大会が終わるまでは、風船の仕事一本で頑張ってみようと決意し、その時所属していた会社を辞めます。これが風船一本で食っていこうとしたきっかけです。
2019年全国大会を開催。失敗と成功
全国大会は正直、成功しました。多くの一般参加者が集まり、バルーンはすごいぞっていう知名度も高またけむと思います。前日か当日に発砲事件かなんかがあって、だいぶ逆風が拭いてましたが、たくさんの方が参加してくれました。でも、実際、ツイスターズの告知のためになんやかんやと活動した時にできた繋がりが、その後多くの人脈に繋がりました。
そして、失敗もしました。信じていた身内の裏切りに会い、それをキッカケに人間不信になり、心がトゲトゲして攻撃的にもなり、それ以来、自分の目的を優先して手段を選ばなかったため、保守的な人たちは軒並み敵に回りました。
そんな中、身近でずっと支えてくれたのは、池田さん、シュウさん、そして、はるちゃんです。そして、関西の大会をきっかけにバルーンを始めたという多くの人たちの励ましの声が私に大きな力を与えてくれました。そして、それがあるからこそ、あの大会を”成功”だと自信を持って言えます。本当に苦労をかけました。ありがとう。一生感謝し続けます。そして、ある種開き直って最強と化したたけむーさんが誕生したわけです。
2020年変化に対応できるものだけが
ツイスターズで受けた心のダメージが癒やされ、心が上向きになってきたところに、今度はコロナで一旦仕事が途切れます。でも、ツイスターズ2019を乗り越えた私には何も怖いものはありません。自分の折れない信念と、バルーンへの信頼と情熱が、”新しいやり方”へシフトするための行動力をくれました。そして、それがメディアに大きく取り上げられることになります。そして、それらは過去に行ったさまざまな半分趣味のお金にならない活動のおかげで実現が可能になったものばかりでした。過去の活動が、誰かにために頑張ってきたことが、5年、10年かけて思いがけずに、自分のところに帰ってきた。運命ってあるのかもしれないね。
2022年法人化する
そして、順調に業績を伸ばして、2年前に法人化します。一番のキッカケは、はるちゃんを雇用すること。その一点です。もちろん、業績が伸びて各方面で法人化したほうが良いと言う判断もあるのですが一番はそれです。コロナのせいで行きたいところに就職できず、悩んでいたはるちゃんを助けることができる。それがなかったら面倒くさがって法人化してなかったと思います。
2019年、彼女がそばにいなかったら私はもっと心を病んでいたと思います。そして、インボイスが始まったり、コンプライアンスが強化されたり、Qualatexが倒産したりと急激に変化しまくる時代の中で、私のことを助けてくれた色んな人たちが今後、悩んだり、迷ったり、傷ついたり、困ったりした時に、この会社があることで助けになれたらいいと思う。
会社を作って大儲けして贅沢して遊びたいというのはまるっきり向いていない人間です。自分の好きなこと、やりたいことをやって、作りたいものを作って、それで誰かに喜んでもらえて、生活に困らなければそれが一番良い。でも、やりたいと思った時にできる器がなければ実現しない。この会社はそのための器。バルーンアートを愛して、支えてくれる仲間を大切にするための器だと思っています。
未来に目指すもの
これも絶対メディアに聞かれるので考えておいたほうがいいと思うのです。でも、やりたいと思ったことは大概やってきた私なので、今やりたいことって言われても全然ありません。強いて言うなら、20年先、30年先も、バルーンアートに関わっていたい。その時、自分ができることを、今想像もできないような、やったことないことにチャレンジしながら、ワクワクドキドキしていたい。そして、それを皆と共有できたらそんな幸せなことはないと思うのです。
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細かい経歴
<幼少期〜中学生>
大阪市北区にある父親の所有していたマンションで中学1年生まで過ごす。
中学時代にぜんそくを発症し、いじめにあって一時期不登校。中学2年から川西市へ引っ越す。(堀川小学校卒業、北稜中学校→東谷中学校(松下奈緒と同学年))
引越し先で、ブリーフを履いていたことを馬鹿にされてキレた相手が、学年で一番のヤンキーでものすごく目をつけられるも、学祭や体育祭でそこそこの能力を発揮したことを評価されて周囲に受け入れられる。
<高校生>
不登校の影響かつ、ADHD傾向の強いたけむーさんは部活やってないわ英語が全然できないのと忘れ物が多すぎたので、兵庫県独自ルールにより公立にいけず、大阪にある私立英真学園高等学校の準特進クラス1期生として入学。
生徒会執行部に入り、勉強ほったらかして学園祭と片思いに本気を出す3年間を過ごす。化学は90〜100点代だが、英語は20点代という極めて凸凹な成績を維持。興味さえあればやればできるこYDKとして生きる。1期生で初の生徒会長になるも、フラれた腹いせにタバコをすったのが見つかって停学になるという伝説を残す。
その後リーダーは向いていないと文化委員長に就任。ジャニーズ好きの後輩の一言でソーラン節の企画を立ち上げ「まじっすか」という番組が取材にきてお笑い芸人のサバンナが学校にくるも、見た目のおいしい後輩に主役を取られる。なお、その時の映像は10年間学校紹介のDVDに使われることになる。
阪急百貨店の屋上の熱帯魚売り場で、ヨーヨー釣りと金魚すくい、スーパーボールすくいの店番のバイトする。ヨーヨーの結び方を覚え、スーパーボールすくいの記録は300個を超え金魚すくい大会の司会なんかをやる。波乱万丈だが充実した学生生活を送る。
<大学生〜ニート時代>
英語できないくせに理数系のたけむーさんは、実家を出たすぎて生徒会の功績を活用して、まんまと推薦入学で山口県にある東亜大学医療工学部医療工学科に入学。
学生会に誘われて、地域活性化のイベントやらボランティアに精を出し、その時に福祉やら、レクリエーションの技術やらを学び、そっち系の仕事に進みたいとおもったのと、付き合ってた彼女にフラれて心を病んだので2年で大学を中退する。
当時関西で唯一だった”こども学部”がある東大阪大学に行こうと思い、バイトを3つほど掛け持ちするも、教授がわいせつ行為かなんかで捕まってやる気を削がれ、当時の彼女が不良すぎてこちらも無力感に苛まれ、将来の目的を見失い1年弱ほどニート生活。Yahooチャットに24時間ログインする勢いで実家で自堕落な生活を送る。しかし、途中からはネットで月数万円の広告収入は稼いでそれをお小遣いにオフ会で遊び倒す。
<社会人>
ネットで知り合った1つ年上のシングルマザーに浮気されてフラれ、”どんなに綺麗事を言っても金は必要だ。金がなくては何も守れない”と一念発起し、急に仕事人間になる。ただ、ニートなのでろくな就職先がなく、派遣会社に登録したら、携帯販売員として量販店に派遣される。その際にバルーンアートを覚える。営業成績はかなり良いものの、持ち前のなんちゃってADHDが効果を発揮してしょうもないミスや余計な一言でイマイチ評価が上がらない日々を過ごす。そんな中、元ニート友達が宝塚でバイク事故で亡くなる。彼の分も頑張って生きようと心に誓う。
”俺に団体行動は向いてない”と、営業力を生かして、飛び込み営業職に就く。成績は上の下くらいを維持。常に飛び抜けた成績は収めないものの、丁寧でお客さんから信頼される営業マンを目指す。将来が不安すぎるので、ここで資金をためて起業して独立する夢をうっすらと描き始める。ただし、バルーンアートではない。しかし、仕事にあけくれたせいで、プライベートでトラブルが発生。業績が落ち込み始め、転職を考える。辞める直前に最後だからと本気して頑張ったら、”お前、できるのにサボってたやろ!”と上司に勘違いされて胸ぐらを掴まれ怒られる。(後日誤解は溶ける)
<ボランティア&社会人→独立>
安定した生活を求め、ケーブルテレビ会社に就職し、法人営業の部署に配属して、尼崎に引っ越してくる。土日が休みで暇なので、ボランティアで余暇を充実させようと思いつく。ここからなぜかバルーンアートにまみれた人生を送ることになるのであった。そして、4年半ほど勤め、社会人として必要だったスキルのほとんどをこの会社で身につける。それと並行して、ボランティアを通じて全国各地にいろんな人脈ができる。とくに気が合ったのはボランティアコーディネーターだった北海道出身の通称ぽん太さん。自分の夢を叶えるために北海道に帰ったあとも、ちょくちょく電話で相談に乗ってくれていました。ある日、「僕はぽん太さんみたいにはできない。」と相談し、「たけむーにはたけむーにしかできないことがある。皆んなを支えてほしい。」と励ましてくれ、「なんとか頑張るよ。」と約束したのだが、その翌日に警察から急死したという一報が入る。死因はウイルスが脳に入ったことだったという。最後に交わした約束を守るために、自分らしく社会貢献の活動をずっと続けていこうと決意する。
しかし、突然の部署移動により、土日休みがなくなり、残業時間が40時間ほど増える。せっかくバルーンの仕事が増えてきた上に、その売り上げでキャリアアップのために直前に日本福祉大学の通信学部入学して福祉について真剣に学ぼうとしていたことから、これは独立してやっていけという天啓だと思った私は退職。その後、知り合いの会社で行政の外郭団体職員として週3〜4くらいで企業周りをしながら、通信で大学へ通い、バルーンアートの仕事をし、時にはボランティア活動に励みながら、最終的にツイスターズを期に独立するのであった。
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